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対馬・壱岐 島めぐりの旅 14 金石城跡と万松院

海山ヒロ

海山ヒロ

ラッキーなことに、車窓観光からおりての観光になった椎根の石屋根倉庫。
その後われら一行が向かったのは、万松院でした。

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万松院。
元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家累代の菩提寺となりました。
このブログで何度もお世話になっている「長崎しま旅行こう」HPにそう書いてあるように、対馬を明治まで治めた宗家の菩提寺です。
HPや観光マップをみると、なんだか山の中にあるお寺のように思えましたが、なんのことはない。
昨日訪問した対馬博物館から徒歩数分の距離にありました。

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というわけで、ガイドさんはその通り道にある金石城の櫓門(復元)をまずはご案内。
自民党の竹下登君が「ふるさと創生基金」で復元させたこの櫓門。
近くでみてもま~ご立派です。

前の記事で「秀吉が朝鮮出兵に合わせてつくらせ」と書いたが、そいつは清水山城の間違えでありました。
清水山城は、悪名高き朝鮮出兵(まぁ侵略ですね)の際天正19年、西暦1591年に全国各地から集まってくる配下たちの目印になるように建設されたものとか。
対して金石城は、応仁2年、西暦1468年に宗家の10代目、貞国くんが厳原に遷都した時築いた城(屋形)だそうです。

わたしはその二つがごっちゃになっていたので、「え。ここから徒歩で山のぼんの?杖ついてる方もいるのに?」なんて馬鹿な疑問をもったのですね☆

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さらに言えば、朝鮮から目と鼻の先にある対馬にすでにそんな城があったんならそこ使わせてもらえばいいじゃん。
そんな気もしますが、ま~秀吉君は派手好きだったからねぇ。
あと、金石城は平地に築かれたけれど、秀吉君が目印にしただけあって、清水山城はその後ろの清水山の山頂にすえられたようだから。

上の写真は、その清水山を金石城の櫓門から遠望したもの。
「ブラ〇モリ」でタモさんがここから清水城跡にいるスタッフ(説明の先生だったかもしれない)さんが掲げる目印をみようとしていたけれど、秀吉の頃の武将ならば現代人のわれらより良く見えたのかしら。

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まぁそういうわけで、金石屋形とも呼ばれていたその城は、籠城したり闘ったりするのではなく、住むための城。
その金石城の櫓門の礎石たちは、本土の闘う城にあるそれよりは、石組もほっそりとしておりました。
それとも竹下君時の再現でこうなったのかな?

どっちにしろガイドのKさんの後ろにある鏡石のような薄めの石。
地震がくればびしりとひび割れるか、ばぁんと道に倒れてきそうですが、そこは対馬。「対地震で設計されていないんですね」というKさんの説明に頷くしかありませんでした。

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で、ですね。その金石城の庭園は本日お休みでして。
まぁこの時の目的地はその先にある万松院だったので、看板まえにして「へ~そんな感じなのね」と聞き流しでOK。

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あとは生垣の間からちょっと失礼してと写真を撮らせていただければ、もう満足。

あ。そうそう。ここでひとつご忠告。
対馬の名物に日本蜜蜂のはちみつがありまして、そこの説明書きやガイドブックには「対馬では日本蜜蜂のみ生息しており~」なんて書いてあるのですが。
いや~いましたよ。スズメバチも。

この生垣のわき道を通っておりましたらば、妙におおきな羽音とともにだいだい色と黒のあの模様の虫が。
ん?蛾かな?
そう思いつつ歩きながら見ておりましたらば、顔の高さにぶ~んと飛んでいかれました。
スズメバチが。
オオスズメバチではなかったと思いたい。
「うぉっ!」と美しくない声をあげて飛びのきそうになり、「いやいや蜂に遭遇したらば物音を立てずしゃがみ込むのが鉄則」と思い出して立ち止まりました。

というわけで。現在の対馬には日本蜜蜂以外にも蜂がいます。
そして日本蜜蜂に人が刺されてもまぁちくっとするくらいでしょうが、スズメバチは下手したら死にます。かつて蜂に刺されたことがある方ならば、アナフラキシーショックが出る可能性もあります。
万松院とその周辺は山裾ですので、ご訪問の際には、香水や整髪料など控えめに。蜂を見かけたら慌てず騒がずやり過ごしましょう。

万松院-5

あ、さて。気を取り直して、万松院を訪問しましょう。
元和元年、西暦1615年に宗家20代の義成君が、おとっさん義智(よしとし)の冥福をいのって創建したお寺だそうです。
それが何回か焼けて現在の本堂は、明治12年、西暦1879年に建てられたとか。

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こじんまりとした風雅な本堂には、朝鮮国王から贈られた三具足(香炉・燭台・花瓶)があるということでしたので、さぞかし仰々しく飾ってあるのだろうと思えば、入り口わきにちょこんと。
え~なんというか。
「あれ。飾る場所ないじゃん、あ、ここ空いてるし、入り口ちかいし、ここ置いとく?」なんて声が聴こえそうな、雑な置き方のような。
これなら徳川将軍家から賜ったとやらの大位牌の方がよほど大事に置かれていますねぇ。なにせ一部屋あてられているもの。

と、思っていたらば。さもありなん。ガイドKさんのご説明で納得しました。
距離がものすごく近い朝鮮ではなく、遠く離れた徳川の位牌を大事に安置しているのは、国境の島ならではの、そして戦国の動乱がかかわっていたわけで。

まずですねぇ。この万松院を息子にささげられた義智さんたら、大変苦労された方だったそうで。
その労苦たるや、元寇で家臣もろとも全滅した初代・資国さんに勝るとも劣らないかも。
いや、資国さんは敵に向かっていけば良いだけだったので、義智さんの方が可哀そうかも。

なんとなれば、長年友誼を結んでいた朝鮮に秀吉の命で一番槍で突っ込む羽目になり。
秀吉が死んで家康に天下の主が変わったと思ったらば、今度は「また国交再開するから使者やってね♡」なんて丸投げされ。
いや朝鮮からしてみれば、「おっ前、ついこの間まで殺しにきてたやんけ」と怒髪天つく勢いですから、当然使者をなんども殺され。
さらには嫁さん(正室)は、関ヶ原で西軍の小西行長の娘さんだったもんだから、その間の息子ともども流刑せざるおえず。
宮仕えはつらいよなんて言葉じゃ表現できないくらいに辛酸をなめたお人だったのねぇ……。

裏切り御免!
なんて何度叫びたくなったことでしょう。それでもお家を存続させるために、貴方は耐えたのねぇ。

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そんな苦労人・義智さんや、流刑にされちゃった長男の代わりにお家を継いで万松院を建てただけではなく、徳川将軍・秀忠、家光、綱吉の動乱の時代を乗り切った義成君などのお墓が集まる「御霊屋」は、このなが~い石段を上った山腹にあります。
石段の数は132段。
高さはないですが、幅は妙に広くて登りにくい。特にこの日は蒸し暑かったですからねぇ。なかなか難儀しましたよ。

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御霊屋のいりぐちには樹齢1200年と言われる大杉が三本そびえていますので、足を鍛えて、ぜひお上りください。
この杉の横を抜けて、藩時代にはここを守るための御霊屋番や組の者(衛兵みたいなものか?)が附けられていたとやらの御霊屋も、現在では苔むし、いつか風化していくんだろうなぁという無常観をしみじみ感じさせてくれます。

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あ。そうそう。

万松院のご朱印はなかなかイカシてるのですが、手書きには時間がかかりますので、石段登る前にご朱印帳をあずけていかれるがよろしいかと。

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それから、万松院の帰り道、金石城の石垣をたどっていると対馬朝鮮通信使歴史館もありますので、お時間ある方はそちらもぜひ。
わたしが通った時にはすでに開館時間(入館は16時30分まで)を過ぎておりましたので涙をのみ、エントランスの石屋根を写して帰りました。
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